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花園坊の思い出&数奇な出会い

私が住む打浦橋から北に伸びる道は瑞金ニ路と言います。
フランス租界時代はRoute Pere Robertというフランス語名がついていました。
また当時は金神父路という名も付いていました。
その道沿いに花園坊と言う小区があります。
1930年代頃に出来たんでしょう、上海の独特の石庫門スタイルの住空間です。
当時は文人なども住むハイクラスな住空間だったんでしょう。
この花園坊は今でも健在でして、現在は一般老百姓(庶民)が住んでるのかと思います。

私は上海の街の散歩ブログを公開しています。
その中の「上海・10月の朝の復興公園」
http://4travel.jp/traveler/dapuqiao/album/10038670/
というのに、たまたま花園坊の写真がアップされていました。
それが下の写真です。
花園坊の思い出&数奇な出会い_f0114530_16255459.jpg


その写真を見つけた富山に住むある男性(Sさん)から、メールが来ました。
[花園坊]で検索かけたら、私のブログにぶち当たったと言うことです。

彼は、お母様が中国人で、昔、花園坊に住んでいたということなんです。
彼は中国が初めてです。別件の用事で上海に来るに当たって、
その花園坊を訪れようとしていたらしいです。

以下は彼の話です。
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私の母親は花園坊に両親兄弟と16歳まで暮らしてました。
そして、その後は、親元を離れ、香港のミッションスクールで寄宿生活。
あるとき、シンガポールの華僑に嫁いだ姉のもとに、
上海の父親から託された手紙を携えてシンガポールに・・・・。
しかし、日本軍が攻め入ってきて帰れなくなったそうです。
その日本軍の中に、私の父がいました。
父は陸軍の応召将校でして、戦争の最中に母に出会い、
お互い結婚を意識し始めた。
しかし状況が状況でしたので、シンガポールの聖アンドリュース教会で
2冊の中国語の聖書を買い求め、それぞれの聖書に
「いつの日か、この二冊の聖書が
   一つの所に並べておかれる日の来るように」
と書き、共に祈り、結婚を誓い合って別れました。

その後、父は、1943年に召集解除となり、一旦日本に帰国したんですが、
数奇な導きによって父は、商社マンとして終戦前に
当時昭南市と呼ばれていたシンガポールに戻り、
そして私の母様に再会し、終戦の年の3月に結婚しました。

今、両親が住む東京の実家にはこの二つの中国語の
聖書が並んでおかれています。
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いやあ、もう、小説とか映画になるような話です。

ご両親は88年に、その家を探しに上海に来たそうです。
もう、壊されてなくなってるだろうと、思っていたらしいですが、
未だに残っていて、感激したとか。

その時の白黒のぼやけた写真のコピーを携えて上海入りしたSさんに
お会いしたのが、1月10日です。

彼の本来の用事にも付き合い、瑞金ニ路に向かいました。
下の写真は7日の朝に撮ったものです。
花園坊手前あたりの瑞金ニ路です。
左側には瑞金賓館があり、右には瑞金医院があります。
それぞれ昔は、モリス邸、セント・マリー病院です。
花園坊の思い出&数奇な出会い_f0114530_16333100.jpg


瑞金ニ路からの花園坊への入り口です。
やはり7日の朝に撮りました。
花園坊の思い出&数奇な出会い_f0114530_16351243.jpg


花園坊の家は、同じタイプのものが並び、
白黒のぼやけた写真と同じものを見つけるのに相当苦労しました。
そこに住む人たち数人が寄ってきまして、
あっちだこっちだとアドバイスを受けましたが、なかなか行き当たらない。
やっと見つけたのが下の写真です。
一番左が、彼のお母様が住んでた家です。3階分で一家族が住んでいたんでしょう。
花園坊の思い出&数奇な出会い_f0114530_16371213.jpg


いろいろ話を伺いましたら、
Sさんは私との繋がりも幾らかあることが分かりました。
まずは、大学が同じだと言うこと。
私が横浜にいる頃、横浜関内のYMCAで英検2級の講座を受けていたんですが、
その時の講師を良くご存知だと言うことです。
彼はその頃、横浜YMCAの語学講座関係の統括者だったそうです。
彼のご両親の出会いも数奇なものですが、私と彼の間にも、こんな繋がりがあるとは・・。

そのあと、瑞金賓館、復興公園、新天地などを案内して、
上海のYMCA本部がある青年館賓館まで送りました。
# by inouehir | 2007-01-10 16:13 | 上海散歩・フランス租界

海寧皮革城&斉斉哈尓行き列車

一昨日、浙江省の海寧市へ行ってきました。
目的は、最近出来た中国皮革城の見学です。
いや、そこの情報を日本で知って、
どうしてもそこへ行きたいという女性に付き添っていったのです。
彼女、名古屋放送の女性技術スタッフでして、
もう、上海で3度お会いしています。
去年の1月には、彼女の仲間達と文廟の孔乙己酒家で
大宴会をしたこともあります。

さて海寧市は、銭唐江の逆流で有名な観光地です。
その逆流は9月のある時期でないと見られないものであって、
観光地としては、通年客が呼べる訳ではありません。
ある時期だけパッと花の咲く・・・そんなところです。
ですが、昔から皮革関係の工場やら業者が集まってるところのようで、
その部分で人を集めるところはあったようです。

私が逆流を見に行ったのは3年前だったか・・
その時は、海寧駅周辺には、革製品を扱います商店がたくさんありました。
大きなビル数棟に、その商店がびっしり詰まっていました。
今回行ってみましたら、もう寂れた感じでしたね。
駅から4kmほど離れたところに、
ドデカイ中国皮革城なるものを造ってしまい、
そこに、皆さん本拠を移してしまったんでしょうね。

行きましたら、もう、スゴイ!!
ドデカイなんてもんじゃありません。
4階まであるんですが、
1階の通路を向こうまで見渡しても端が見えないくらいです。
ですから、店がありすぎで、もう、私なんかは見る気がしませんでした。
彼女は、ああ感激って感じでしたね。
私は1時間もいないで、駅へ引き返して、一杯やって、
マチナカをうろつきました。
彼女も、3時間くらい回り歩いてたら飽きてしまったと言って、
駅に戻ってきました。

帰りの列車は杭州発の斉斉哈尓行きの1342次列車です。
硬座の無座です。
私は硬座の列車なんて久しぶりです。彼女は勿論初めて。
改札が始まる頃の、異常な熱気に・・・
井上さん、すごいですね、なんか、怖そうですね、
みんな脇から前へ行ってしまってますよ、
私達も前へ割り込みましょうよ・・・・・・
いや、慌てるな・・・なんて言いながら、自分も慌てているんですが・・。
さて改札始まりました、地下通路を我先に皆さん突っ走ります。
大きなズタ袋を肩に担いだ人も、ドン臭いスーツケースを引いてる人も・・
ホームに出ましたら、もう、どこに立てばいいのか。
つまり、出入り口箇所が決まっていないと言うか、表示されてないというか・・・
つまり、我先に行った意味がないのです。

列車がホームに入ってきました。
さて出入り口が、どこになるのか・・・・
あっ、あのあたりだなとその位置が
決まりそうなソロソロ列車止まる頃になりますと、
そこに皆さんが殺到。
私は、この辺の争いにめっぽう強いので、
スグ、乗り込むのにいい位置を確保。
まずは乗務員が列車から出てきて、デカイ声で乗ろうとする連中に一喝。
降りる人が先だ、といって体を張って、乗る人たちを抑え付けます。
降りる人がゾロゾロ、いつまで続くのかと思える頃、
乗務員がゴーを掛けました。
私は、5番手くらいで乗り込みましたね。
ホームが低くて、列車に乗り込むには狭い階段を上らなきゃならない。
となると荷物をたくさん抱えた人の後ろでは埒が明かない。
ということで、その辺はうまく、前に割り込み、乗り込みました。
そしてスグ席を確保。彼女の席も確保。
私のスグ後ろにいた彼女は、相当遅れて入ってきました。
まあ、しゃあないですね・・・初めての体験ですから。

列車内は、席は勿論全て埋まっていましたが、満杯ではありませんでした。
通路にまばらに立ってる人がいる、そんな感じですね。

車内の人達は、殆どが荷物を抱えています。
見たところ上海人は少ないようです。
斉斉哈尓行きの列車ですから地方へ帰る人たちが多いのか・・・
春節には、まだ日にちがあります。しかし、早めに帰る人たちなのか・・。

我々が降りる上海南站の1つ手前の松江で
乗り込んできた女性がたまたま運良く、私の席の前に座りました。
彼女、大きなワンちゃんのぬいぐるみを抱えていまして、
いかにも地方出身という感じの純朴な雰囲気。
君は、どこまでと聞きましたら、徐州までだと。
イロイロ聞きましたら・・・
松江でもう3年働いている。上海には今まで行ったことない。
徐州は田舎で1年に1回帰る。14歳から、こうやって出稼ぎをしてる。
北京でも働いていたことがある。今は21歳だ。

逆に彼女に、あなたは、どこの人なのと聞かれました。
日本からだと答えましたら、エエ、ホントなのと言う感じで、
ビックリしたような表情しまして、近くに立ってる彼氏に、
この人達、日本人だって、と伝えていました。
更に、日本で働けば、給料高いのと聞いてきましたので、
給料も高いけど、トマトも1個6元はするよ、
と言いましたらビックラこいていました。

南站に近づき、我々は立って、彼女に再見と言って別れを告げましたら、
コレどうぞと、話梅を手渡されました。
いくら断っても、持って行けという訳です。
何かお返しにと考えましたが、何も持ち合わせていません。
時間があれば住所を聞いて写真を送ると言う手もあったんですが、
もう降りなくてはなりません。
気がとがめながら、また再見といってお別れした次第です。

まあ、何と言いますか、純朴で、泣けてきましたね。
こういった純朴の人達、中国にはワンサカいるんでしょうね。
特に地方には・・・・。


海寧皮革城&斉斉哈尓行き列車_f0114530_2455611.jpg

海寧皮革城。海寧液から4kmほど離れた新しい開発区にあります。駅からタクシーで10元。
液からは15路というバスでも行けます。


海寧皮革城&斉斉哈尓行き列車_f0114530_2485690.jpg

広~~い店内。4階まであります。各フロアーに、こういった長い通路が2本あり、
その両脇に店が並びます。


海寧皮革城&斉斉哈尓行き列車_f0114530_251104.jpg

数ある店の中の1つです。


海寧皮革城&斉斉哈尓行き列車_f0114530_2523579.jpg

海寧駅近くにある昔からの店。こういった皮革製品だけを扱った建物がいくつかあります。
でも、今は、活気がありませんでした。


海寧皮革城&斉斉哈尓行き列車_f0114530_254476.jpg

列車がホームに入ってきました。
1時間前から始まりました席取り争いのクライマックスが近づいてきました。
ホームが低いでしょう。コレが良くないのです。列車に乗り込むのに、狭くて急な階段を
上らないといけないので、荷物を抱えてる人は一苦労です。
しかし、上海南駅のホームは高くなっていまして、乗り降りがスムーズです。
いずれ、全てのホームが高くなるでしょう。


海寧皮革城&斉斉哈尓行き列車_f0114530_30058.jpg

車内の様子です。
席は埋まってますが、満杯ではありません。
# by inouehir | 2007-01-07 03:02

七宝鎮の食堂

12月21日に七宝鎮に行って来ました。
水郷観光地としては上海の中心部からは一番近いでしょう。
規模としては周庄などよりは小さいですが気軽に行けますので、
上海のお年寄りやら、若者でウィークデイにもかかわらず賑わっていました。

昼飯を食った食堂の様子をお伝えします。
コレが食堂の店先ですね。
許氏羊肉湯となってますから、どうも羊肉スープがが売りのようです。
七宝鎮の食堂_f0114530_1236201.jpg


ということで羊肉スープ麺を注文しました。
手前の食い物は臭豆腐と言うヤツです。
道端で揚げていたやつを買って、持ち込みました。
ホントに臭いのです。4個で1元ですから、8個買いました。
麺が来るまで、コレをツマミにビールをやりました。
前のおばさんは、ダレ切っていますね・・いや、イイんです、こんな感じで・・。
まだ忙しくないんですから、ダレ切った態勢で客の前に、こんな感じで座っていてもいいのです。
注文は、このおばさんにしたんですが、顎で向こうのレジにいるお姉ちゃんを指し示しました。
彼女に注文せい、ってことなんでしょう。
七宝鎮の食堂_f0114530_1393854.jpg


こちらが、そのレジのお姉ちゃんですね。
なんか、一生懸命、勉強していました。
こんな食堂は、いつかやめて、もっと上を目指すんだ、ということなんでしょう。
七宝鎮の食堂_f0114530_137275.jpg


出てきた羊肉スープ麺です。紅焼羊肉も付いてきました。
コレで10元だったかな・・・なかなか美味かったです。
ビールは三得利(サントリー)で5元だったはずです。


七宝鎮の食堂_f0114530_13354687.jpg

# by inouehir | 2007-01-04 12:45 | 上海・街の様子

境界があいまい・境界意識のなさ

2年前に安藤忠雄の蘇州紀行がBSで放送されました。
「わが心の旅:蘇州・水が生命(いのち)」と言う番組でした。
その番組で、安藤さんが蘇州の街並み、皆さんの生活風景を見て
感じたことの1つが下記です。

  肉屋、靴屋、果物屋が入り乱れ、川を跨ぐ家があり、
  そば屋は道まではみ出して店を広げている。公との境界が無い。
  売る人、買う人、食べる人、車が通るところ・・・全く境界線が
  ないようで、あるようで・・また、境界線は、どんどん動いてるようでもある。
  混沌の世界だが、ある意味じゃあ理想郷なのかも・・・
  人と人の気持ちの繋がりがないと、こういうのは成り立たないから。

・・・・・・・という訳です。フムフム、なるへそ・・・・。
これは、私も上海の街を歩き回って、いつも感じることなんです。

さて、12月21日に、2階建てバス・911路で七宝鎮へ行った訳なんですが、
その始発バス停までの道のりで見た風景を、まずはご覧ください。
方浜西路の道並みの様子です。

方浜西路の「浜」とは水路のことらしいです、それも東西に走る水路のことですね。私が住む打浦橋地区には打浦路という道があるわけですが、この「浦」も水路のことを言ったようで、こちらは南北に走る水路のことだったらしいです。ということで、この道には、昔は「方浜」という水路があったということなんでしょう。


果物屋は色鮮やかですね。歩道も完全に売り場になっています。プラタナスの手前のリンゴは紅富士となっています。陝西省の産物のようです。毎斤(500g)2.3元ですね。
境界があいまい・境界意識のなさ_f0114530_653098.jpg


こちらの店も凄いですね。歩道は完全に売り場スペース。そして、街路樹の枝は洗濯物を干すのに使われています。手前のぶら下がってます白いものは、干し魚です。この時期に出回る品物です。街路樹を柱として、そこに桟を渡してぶら下げてます。
境界があいまい・境界意識のなさ_f0114530_6544156.jpg


これも、よくよく見ますと不思議!!後ろの店は快客と言うコンビニ。そのコンビニの店先の前の歩道は孫とお母さんとお婆ちゃんらしき人達3人が占領している。
テーブルを置き、商品を並べて商売しながら、日向ぼっこをかねて、子守もしている。この3人は、コンビニの関係者なのか、否か・・・・  どうも違うような・・・・この辺の境界意識の無さ・・・・・  不思議だなぁ・・・・。
境界があいまい・境界意識のなさ_f0114530_6554037.jpg


こういったことを・・・公徳心のなさと感じるか、いや、それとも違うような、と感じるか。

日本人から見たら、まず全く無秩序の世界そのものです。ですが、見てますと、この混沌雑然の中にも彼らなりの秩序があるんだろうな、などとも思えて来ます。

いや、日本も昔は、そうだったんだ・・・戦後の混乱期は、こんな感じだったんだ・・・大阪の昔の下町は、こんな感じだったんだ・・あるいは江戸時代は、こんなもんだった・・・・・・なのかもしれませんが。

つまり安藤さんの言う・・・・・
  混沌の世界だが、ある意味じゃあ理想郷なのかも・・・
  人と人の気持ちの繋がりがないと、こういうのは成り立たないから。
・・・・と言う見方からしますと、人と人のつながりが強いと境界があいまいになり、境界意識がなくなる・・・
そういうことなのかもしれません。
# by inouehir | 2006-12-23 06:48 | 上海・街の様子

新新里・06.12.16

我が打浦橋の北に新新里と日暉里という2つの古くからある小区(住空間)がありました。
瑞金ニ路と徐家匯路が交差しますところの北東角にある一帯です。
そこには、1920年代末から30年代にかけて造られた2階建て3階建ての長屋形式の住居がビッシリ並んでいました。
中国国歌・義勇軍行進曲を作詞しました田漢さんも日暉里に住んでいました。そして、彼の創設した新劇集団・南国社もそこにあったそうです。
この2つ小区が、再開発でなくなるという噂が出たのが3年前だったか・・・。2年ほど前から引越しがボツボツはじまり、追って家の解体作業も少しずつ始まり、今年初めには大方、撤去が終わり、2・3ヶ月前にやっと更地になりました。
今は、工事が始まろうとしています。
将来は・・・3年後か・・・地下鉄9号線の打浦橋站も出来るそうです。そして、その上にはオフィスビルやショッピングセンターやマンションなども出来るんでしょう。

この新しくで来る街並みを時間を追ってアップしていきたいと思います。そして、生活感があった頃の新新里の様子や、壊され始めた頃の様子の写真もアップしていきます。

まずは、工事が本格的に始まりました06年12月17日の様子です。

徐家匯路の歩道橋から撮ったものです。左に見える道が瑞金ニ路です。
新新里・06.12.16_f0114530_14453164.jpg


次は打浦橋地区の模型です。上海城市規劃展示館のものを撮ったものです。
ピンク色で囲ったところが新新里です。
この模型には、既に将来の姿が表示されています。
このような建物が将来建つんだ、と言うことがわかります。
新新里・06.12.16_f0114530_14531880.jpg


次は去年の7月4日の写真です。
徐家匯路沿いに建っていました4階建てのアパートです。
1932年と言う浮き出し文字が確認できます。
新新里・06.12.16_f0114530_1456516.jpg


次も同じく7月4日のものです。
当時、新新里はは3分の1ほど壊されていましたが、その壊されてしまったところにも、まだ住んでる人が居ました。
新新里・06.12.16_f0114530_156169.jpg


新新里の中央部には新新街という小道が瑞金ニ路から東へ伸びていました。
行き止まりの道ですが、その道には自由市場などが並び、その頃は、まだまだ元気でした。
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# by inouehir | 2006-12-17 14:32 | 新新里